『夜のノイズ、誰も応答しない』

夜の交信

梅雨が明けきらない夜だった。

床板は湿気を含んで、歩くたびに小さく鳴った。

もう何年も送信していない無線機のスイッチを、
久しぶりに入れたのは、ただの気まぐれだった。

――そんなふうに言い訳しながら、俺はアンテナの方向を探った。

ザーッ。
ジジジ。

誰かの声が混信していた。

弱い、かすれた声。

耳を澄ませば、昔どこかで聞いたような声だった。

「……フジタ……」

そう聞こえた気がした。

帳簿のコピーと一緒に、封筒の山の下に埋めていた
藤田会長の名前が、急に現実の中で脈を打った。

辞任する少し前、俺は一度だけ藤田さんと電波で繋がったことがある。

それが最初で最後の交信だった。

今思えば、あの時すでにもう全部始まっていたんだろう。

健全化プロジェクト。

京大出の弁護士の森永が動かした、正義をまとった網。

JARLの赤字。

公開された帳簿の広報費、酒代、割り勘の一万円。

ぜんぶ、声にならないノイズの中に落ちていった。

――俺はその夜、窓を開けたまま
電波を探りながら、手元の古いログ帳を開いていた。

ページの端が湿気で波打っている。

「自己訓練・技術研究」だの、「公共の福祉に資する」だの。

総務省が新しく加えた言葉が脳裏にちらつく。

どいつが決めたんだ、こんな筋書きを――

いや、決めさせたのは誰だ。

暗い部屋の中で、ページをめくる指先が震えた。

神谷社長の名前も、一度だけ交信ログに書き込んだことがある。

直接喋ったわけじゃない。ただ誰かが言ってた噂話を、
俺は電波で拾って書き留めただけだ。

ザーッ。

無線機のノイズが、まるで心臓の鼓動みたいに聴こえた。

藤田会長が辞めて、森永が笑って、神谷が黙っている。

その頃にはもう、改憲は目の前まで来ていた。

台湾有事だの、日本版RACESだの、
無線は国の盾になれだの。

俺たちはいつの間に、
誰の声を繋ぐためにアンテナを立てたんだろう。

空を見上げた。

夜の雲は分厚くて、星は一つも見えなかった。

ザーッ。

ノイズだけが、どこまでも響いていた。

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封筒の中の帳簿

ザーッ。

ノイズが途切れると、部屋が急に息を潜めたように静まった。

机の端に積んだ封筒の束が、湿気を吸って膨らんでいる。

その中のひとつ、森永から送りつけられた分厚い封筒だけが
やけに重たく感じた。

開封もせずに、何度も机の上を往復させた。

捨てることも、見ないふりをすることもできなかった。

指先で角を裂くと、中からコピー用紙の束が滑り出た。

インクの滲みかたで、安物の複合機を使ったんだろうとわかる。

ところどころ、付箋がついていた。

赤いボールペンで「不正?」「使い込み?」とだけ殴り書きされている。

悪魔の証明。

誰かが言った。

ないものを証明しろと迫るのは、
証明できないと知っている側の勝ちだと。

書類の間に混ざって、
一枚だけ送付状のコピーが出てきた。

差出人は「健全化プロジェクト代表 森永」。

達筆すぎる署名の横に、
印鑑がべったり滲んでいた。

紙をめくるたびに、俺の手のひらが湿っていく。

広報活動費、交通費、飲食費――

どれも監査を通っているはずの数字が、
付箋で赤く囲まれていた。

「俺に何を証明しろってんだ……」

つぶやいてみたところで、返事はない。

帳簿は何も答えない。

藤田会長も黙ったままだ。

湿気を帯びた紙のにおいの向こうで、
無線機のノイズがまだ微かに生きている。

俺は帳簿の束を掴んで、
もう一度電波に耳を澄ませた。

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悪魔の証明と人間模様

帳簿の紙を一枚めくるたびに、
紙の向こう側から誰かの声が滲み出てくる気がした。

森永の甲高い声。

総会で一度だけ聞いたことがある。

あのときはまだ、正義の旗を振っている人間に
拍手を送る連中が大勢いた。

「赤字を解消しろ」
「帳簿を開示しろ」
「広報活動費の内訳を示せ」

耳障りのいい言葉だった。

何がどう不正なのか。

証明するのは追及する側のはずだ。

けど、森永は逆にした。

藤田さんに証明させた。

ないものを、あると言われて証明しろと。

――悪魔の証明。

ページをめくると、
飲食代のレシートがモノクロで貼りつけてある。

「割り勘」「現金精算済み」
書き込みは一万円だけだった。

徳田副会長が「二重取りだ」と騒ぎ始めたのは
この数字だった。

藤田さんは頭を下げて返金した。

あの人には、何も隠す癖がなかった。

むしろ、こうしてしまえば済むと思ったんだろう。

でも徳田は見逃さなかった。

いや、最初からそれが欲しかったんだ。

ページをめくる。

紙の端が手汗で軋む。

神谷の名前はどこにも出てこない。

けれど神谷がいないはずがなかった。

名古屋のあの工場の裏口を、
俺は一度だけ見たことがある。

鉄門の内側に、総務省の車が何台も止まっていた。

赤字だ、人口減だ、若者は無線に見向きもしない――

そんな泣き言を言いながら、
トランスコムは米軍にも自衛隊にも機材を売っている。

藤田さんが会長を辞めた夜、
俺の無線は沈黙していた。

誰も応答しなかった。

応答できるはずがなかったんだ。

電波の向こうで交わされていたのは、
俺たちには聞こえない周波数の声だったから。

――ザーッ。

ノイズが小さく混じった。

封筒の中身はもう残りわずかだった。

俺が欲しかったのは証拠じゃない。

ただ、どうしてこうなったのか。

誰が誰を裏切って、何を選んだのか。

それだけを確かめたくて、
俺はずっとこの紙の山を睨んでいる。

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森永と会った夜

机に突っ伏したまま、
冷えた木の匂いと帳簿の紙のインクの匂いが混ざって
頭が少し遠くなった。

神谷の裏側――
あの名前は、俺にとってはずっと電波の向こうの遠い誰かだった。

森永と会ったのは、たった一度だけだ。

総会の後の、小さな懇親会場だった。

森永は背広の襟が妙に浮いていて、
弁護士にしては言葉がやけに角張っていた。

彼の周りには、物珍しさで集まった連中が
安いサンドイッチを片手に固まっていた。

「俺は全部明らかにするつもりです。
 このままじゃ駄目なんです。
 JARLは腐ってる。
 会計を開示すれば、きっと…いや、必ずボロが出る。」

紙コップのコーヒーが安っぽく湯気を立てていた。

森永の目は、何かを捉えているようで
何も見ていないようだった。

俺は名刺代わりに無線局のコールサインを名乗ったが、
森永は手帳に乱雑に書き殴っただけだった。

「何か知ってることがあれば連絡ください。」

そう言って、分厚い封筒を小脇に抱えて帰っていった。

――それが、
今こうして机の上にある封筒だ。

あの夜から何度も森永にメールを送ったが、
一度も返事はなかった。

藤田会長に証明を迫るための「ネタ帳」。
それ以上でもそれ以下でもない。

正義か私怨か。
あの目の奥にあったのは、
どっちだったんだろう。

無線機の奥で、
ザーッ……ジジジ……と
遠い誰かの声がまた混じった。

紙束を指で挟んだまま、
俺は一度だけ机に突っ伏した。

湿った木の机の匂いが、
頭の中の何もかもを吸い取っていった。

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神谷の噂

封筒の紙の向こう側で、
神谷の名前がぼんやりと浮かんでいた。

あの噂を誰から聞いたのか。

思い出したのは、
四国の古い友人だった。

同じ年に局免を取って、
何度か台風の日に災害ネットを一緒に回した相手。

「知ってるか?
 あの神谷のとこ、防衛省とも繋がってんだってな。」

受信機のスピーカーから流れた、
彼の声はやけに湿っぽかった。

真夜中に 430MHz で、
くだらない雑談をしていたときだった。

「米軍?自衛隊?
 名古屋の工場の裏口に
 総務省の公用車が並んでたって話だよ。
 お前のとこの JARL、あれ変わるぞ、そのうち。」

当時は笑い話にした。

トランスコムが何を売ろうが、
俺には関係ないと思っていた。

でも、その夜から少しずつ
電波の端にざわざわと不穏な声が混じるようになった。

四国の友人は、
藤田会長が辞任を決めた翌週、
局免を返上して無線機を全部処分した。

「もう俺には何も聞こえなくていい。」

そう言って電話を切った声が、今も耳に残っている。

俺はまだ、このノイズの向こうに
何か残ってるんじゃないかと思ってる。

だから、こうして帳簿を睨み続けてる。

――ザーッ。

ノイズだけが、
その夜も俺の頭の中でうなっていた。

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有事が現実に

ザーッ。

無線機の奥のノイズが
いつもと違う混じりかたをしていた。

夜明け前の空を見上げていたとき、
遠くの空に小さな火花みたいな光が
ゆっくり膨らんだ。

最初は雷かと思った。
でも雷なら、地鳴りなんてしない。

机の上のスマホが、
耳障りな警報音を吐き出した。

【台湾有事発生】
【防衛省 登録無線局 各局 非常通信補助要請】

手が汗で滑った。

こんな文字列を見せられても、
何をどうすればいいのかわからなかった。

ザーッ。

窓を開けると、
はるか向こうの地平線が少しだけ赤く染まっていた。

基地か港か、工場か。
どこがどうなったのか、テレビはもう映らない。

無線機からは誰かの呼び出し符号が
ノイズに溶けて途切れ途切れに聞こえた。

「CQ…CQ…登録局…こちら…」

途中で切れる声。

近所の丘の向こうで、
低い爆発音みたいなものが鳴った。

でも俺には何が破壊されたのか分からない。

ただ空気だけが妙に乾いていて、
アンテナの先端がゆらゆらと揺れていた。

――ザーッ。

俺は封筒の上に、
古い交信ログの手帳を置き直した。

昔、災害ボランティアで繋いだあの周波数が
今は国防の電波になった。

送信キーを押す指が冷たくて震えた。

ザーッ……
――CQ CQ DE JR6…

呼びかけた自分の声が、
ノイズに呑まれていった。

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応答のない空白

ザーッ。

送信キーを離しても、
ノイズだけはまだ生きていた。

「CQ…CQ…DE…」

呼びかけた符号が、
部屋の隅で何度も跳ね返っている気がした。

空はもう夜明け切っていた。

雲の切れ間から、
どこまでも白くて冷たい光が差し込んでくる。

遠くで誰かの声が返ってくるかと耳を澄ましたが、
何も聞こえなかった。

窓の外に見える丘の上のアンテナも、
風に揺れているだけだった。

何が爆発したのか、
どこが燃えているのか。

俺には結局、確かな形で何もわからない。

ただ、呼ばれたという事実だけが
帳簿の紙よりも重く胸に残っている。

無線機のスイッチを切ろうかと思ったが、
指先が動かなかった。

ザーッ……
ジジジ……

どこかで誰かが、まだ何かを送っているのかもしれない。

応答はなかった。

呼んでも、返ってくるものはなかった。

それでも、
このアンテナだけは立っている。

夜が明けても、
空白のままでも。

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