「電信」について考えてみた。

電波を使った遠隔通信の方法としては最も古い無線電信、今でもその魅力で惹きつける電信について。

無線の楽しみについては以前のブログで「無線機とアンテナの先にはただ空間だけが広がっていて何もないのに交信ができる」こと自体が楽しさの源泉と結論づけました。もう少し抽象化して考えれば「空間愛」と言えるものです。

私はよくローバンドで和文をしています。冬の夜、3.5MHzで雪の積もっている日本海側の局と一文字一文字、縦振り電験でひらがなを送るのは「心地よい」気持ちになります。

もしかして電信という通信技術自体に「空間愛」に結びつくものがあるのではないかと考えたのがこの文章です。

試しに3.5MHz電話と3.5和文電信を聞いてみます。

電話は、発話者の生物的個性のある音声、周り持った言い回し、「年配者のしわがれ声」ですし。

電信は(例外は残念ですが)3対1の長さの長点と短点、狭いフィルターで聴くことによるノイズの少なさ、脳内デコードの結果としての明瞭さです。

失礼なこととは思いますが電話は電信に比べて「不潔」いいかえれば具象的、電信は「清潔」言い換えれば抽象的な通信方式です。

通信方式の発達につれて人間側の求められる能力は「抽象(文章化)から具象化(そのまま)」でよく特別な発信力、理解力がなくても通信技術の発達を享受できるようになっていったのです。

単位時間に送ることのできる「情報量」は電話>和文電信です。

情報量で見た通信方式(載せられる情報は抽象から具象へ)

単位時間での遅れる情報量で考えれば少ない順に

電信

電話

静止画像

動画

という順番になります。

電信では共通符号発信者は発信者IDを電文のなかで明記しないと区別ができない。

電話では共通言語の特定の二者がお互いを生物学的音声の違いで識別でき通話できます。

静止画(音声つき)では視覚によって、複数の中から発信者を区別しながら通話できます。

動画では複数の発信者の人物同士互いに区別しながら通話できます。

面白いのは二者間の通話においてはいわゆるテレビ電話(動画付き)の電話は普段必要とされていないということです。やっと遠隔テレビ会議システム(複数の発信者の発言を見分けられる必要が生じた時です)アマチュア無線でもアマチュアテレビが爆発的人気が出たことがないのは、二者間通信においては電話以下で十分だからです。

データ通信ではなくリアルタイムで行われる通信において単位時間の情報量が増加したのは、複数化する「発信者を区別したいという目的から」であって、そのために音声だけでなく視覚情報を加えただけなのです。「音声通信」のみで意思の疎通は十分なのだということです。

にもかかわらず「抽象能力を発信者側に求める通信からその能力を参加するためだけなら求められない具象通信(いわゆるテレビ会議)」はむしろ複数の発信者の能力(抽象能力)を落としてしまっているのではないかと思います。

「言葉の意味がわかる喜び」(デコードできる喜び)

私たちは余りにも母語で他人と話し理解することが当たり前になっていますが、他国語を学習していて、何気なくきいた言葉が丸ごとわかることがあります。そういう時は別の視界がパッと開けたようで喜びを感じます。

最初で私はアマチュア無線の楽しさを「無線機とアンテナの先には何も無いのに交信できる喜び」と書きましたが、「交信」には言葉が通じ、電信であれば符号が解読でき、符号が打てると噛み砕いて書くことができます。

「無線機とアンテナの先には何も無くて電波がとどいた」だけではあまり嬉しくありません。

「無線機とアンテナの先には空間以外何も無いのに日本語(和文)が聞こえて理解できた、(解読できた)届いた(了解された。)、この時の方が嬉しいとはっきり感じられるはずです。

日本人にとっての日本語は余りにも身近なので中途失聴者が聞こえるようになったりした時でない限り限り、あらためて「理解できた」喜びというのは感じにくいと思います。

その点電信というのは日本語を習得した後で学びますので、符号を聞き取れるようになったとすれば学習したものですし、和文の符号自体も日本語空間で一般に使われているわけでも無いので、日本語を聞いてその意味を理解するというほど無意識的ではありません。

無線遊びの一部である。無線電信は日本語、他の言語を理解でき操れる喜びを、和文や欧文の符号の解読、書き出しによって「外在化」させることで再現し無線遊びの楽しさの本質に到達しているのではないかと思います。

「暗号遊び」が子どもたちに人気なのは言葉を習得できた喜びを、「暗号」を操作することで外在化し、再体験する行為だと思います。

無線電信における抽象化。

和文電信は無線電話と違い、無意識化した母語を操作する行為と違い、口語とは異なり、冗長な言い回しや、論理的わかりにくさを整理するというより抽象化した表現が必要です。これは最小限の長さの文章を書くという課題と同一です。

文章で通信をするという点では「手紙」にも似ています。しかし無線電信において個性ある筆跡にあたるものは微細なもの以外は受信者に喜ばれません。電話におけるような解剖学的声帯の個別性のようなものは排除されます。女性オペレーターにとって好まれることがあるのはこの電信の「無個性」性にあります。

時間あたりの情報量が小さいことから電文は抽象的なものになります。

「和文」無線通信空間は日本の空間と並行宇宙のように重なる。

「CQホレ」を出した時、私の頭のなかは、日本列島を思い浮べています。

たまに間違って読んでくる海外局、Wの和文局などもいます。

欧文ならば「全世界」が浮かびますかね。

でもみんなが無線をしているわけでもなく、和文をする局もポツポツしかいないですね。

尚且つ無線通信の空間だから、私の頭の中には日本地図と重なった次元の違うところにある、日本にいるアマチュア和文通信士空間が頭に浮かぶ、そこで和文符号で抽象的な文章を書いて電波を断続させて通信。

とても抽象的なような、清潔な空間で交信、日本語が解読できる喜びに浸りつつ、リグとアンテナの先には空間以外何もないことに感動して味わいつつ交信を終えます。

まとめ

和文電信をやっていて、この気持ちよさはなんだろうと思うことが多々ありました。

尚且つ「背筋が伸びる感じがして」「なんかきちっとした無線をやった気分」になるのが不思議でした。

もしかしたら、無線遊びの本質に関わっているところがあるのではないか?

と思ったのがこの文章を書くきっかけです。

見落としていたのは、「私が余りにも母語を理解し操作できることを当たり前だと思っていて、そういうことができることをあらためて「喜びと感じることがなかった」」

という点にありました。

日本語を読み取り聞き取り書き出すことが自由にできることはとても素晴らしいということです。

日本語がきちっとしていない人は、日本語で考えられない人です。多言語おしゃべり人形なんて要りません。そんなのAIに任しとけばいいんです。

和文電信を「ボケ防止」でやっているという方によくお会いしますが、良いと思います。「抽象化した表現を一瞬で編み出す」能力は間違いなくボケ防止になります。

通信方式が電信から動画に変わっても、コミュニケーション能力の向上、人間ならではの抽象化思考の増大につながらず、具象化(見たそのまんま)イメージ操作にしか使われてないのはTVを見れば明らかです。技術の進歩で能力が退化しているのです。

無線電信は趣味の無線通信のアルファでありオメガです。

発声すること無く、長点と単点で抽象的された「星座」。リグとアンテナの先には空間だけが広がっていて電波を断続させて抽象化した文章をひとつひとつ記号化して送り、相手は言葉に戻して理解する、彼方とのそのやりとりは簡潔で無線通信の本質的楽しさを味合わせてくれます。

無線電話が悪いというつもりはないのですが、もう少し、きちっと簡潔に「清潔」にやりたいものです。そして日本語を大事にしたいものです。

「無線遊びの楽しさの本質はリグとアンテナの先には空間しかないのに、同じ条件の、理解できる言語あるいは解読できる符号を操作できる相手とその言語符号空間で通信できること。」

追記

リモート会議がお好きな方がいますが、参加者各人の参加前の熟考なしにそんなものをやればやるほど集団の思考力は落ちてゆくと思います。ましてや「慰労会」「飲み会」の代わりにしようというのはただ気持ち悪いだけなのでおやめになることをお勧めしたいと思います。

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