無線行為の喜びは、リグとアンテナの先は空しかないこと。
なのに遠くから電波は聞こえてくる。遠くに届く。
そのこと自体が喜びなのだ。
電線の繋がっていない場所なのに。
ここの前にに広がる空間。
どこの空間にいても交信可能性があることの喜び
それ以前は有線か、近くの同じ空間にいなければ通信(互いの存在を確認できなかった)できなかった。
可能性としてはどこに設置しても交信できる。(空間は一つであるならいつでもどこにいても互いの存在を確認できる、互いにどこにいるかを)
ここにはいなくても、別のどこかにいることを確かめられる喜び
一人でいても、電波を受信することによって、離れた、他者の呼びかけを聞くことができる。寂しくはない。
遠くからの他者の呼びかけは近くの他者の呼びかけよりも価値が大きい
親しいものが、互いの存在を空間の中でどこにいても確認することができる、よろこび
空間に隔てられた、空間を越えて電波が遠くの空間へ届くこと自体が喜び。且つ価値が大きい。
それとは逆に通信できないことがあることによって、空間の中の存在を「想像」することができるようになる。
電波の「不在」が相手が存在しなくなったわけではなく、通信できないだけなのだという意味に置き換わる。
無線遊びが想像力の遊びというのはこういう理由からである
通信できなくても、「不在の空間」を越えて行く電波を想像するだけで楽しい。いつも応答がなくても楽しめるようになる。
ここで存在確認のよろこび、一人きりではないことの確認でしかなかった通信は電波を伝播する空間自体を愛する遊びとなる。
無線遊びの通信の本質は存在確認なので、アンテナとリグの場所と操作するものとの位置は近くなければつまらない。距離の離れたリモート局との交信が白けるのはそういう理由から。
移動運用、一体型のCBが楽しいのも同じような理由からである。交信相手からすれば相手の存在位置が明確になり、送信側はただ目の前の空間だけに集中できるからだ。
ラジオ放送の受信の喜びも、まず内容以前に、受信機の先にはアンテナの先には広がる空間しかないことがまず喜びなのだ。
そのアンテナが最寄りの放送局からの電波をとらえてラジオから音声が出る。その原初的な嬉しさを見えなくしてしまっているものが多くなったのだ。
人は放送する側が送信する「内容」(情報)だけを聞いているわけではないということ。ノイズやQSBも含めて聞いているのだ、無意識的には、送信所のエリア内であるのだろうとか、どこのスタジオでやっているかとか、録音かという気配も含めて聞いているのだ。
レコードやテープの復権という現象が起きているが、それは「音楽を聴く」という行為が、単に音楽という情報だけを聞いているわけではなかったということを意味している。レコードやテープ媒体とそれに乗っている音楽は切り分けて考えることができないということを意味している。
それは表現者側から見ればレコードやテープの時代に表現された音楽はCDやMP3にマスター音源をコピーすれば済むのかということも含んでいる。そう見た時、ラジオも含めた媒体(メディア)は「楽器」と同じような位置を占めることになる。バロック時代の音楽がその時代のチェンバロやバロックフルートでなければ表現できないように。それ以上にバロック時代にはラジオもレコードもないわけだから本来は室内楽として目の前で聴くべきものであるかもしれない。
AM放送を聴くという行為は聞きづらいから費用がかかるからラジコやFM放送に切り替えれば同じ結果というわけではないのである。
アマチュア無線に話を戻します。
携帯電話が普及したからアマチュア無線は魅力がなくなったという意見をよくきく。確かに携帯電話の普及とアマチュア無線人口は反比例している。「存在確認」の手段として携帯電話は有効だ。
しかし、アマチュア無線にとって本質である、「アンテナの先は空」という状態は再現できていない。
アンテナの先は基地局と有線回線であり、
電話番号を知らなければ、相手は存在しないに等しい。電話番号を知っていることは確実に相手の存在を確認できていることと同じ意味である。通信できない時は不安なだけで楽しくない。携帯電話は不特定多数の相手と通信する装置でもない。
違うのに何故アマチュア無線局は減ったか?
アマチュア無線側も時代につれて変質していたからではないのか?VUHFでの決まった相手とのラグチュー、退屈ないつもおんなじようなメンバーによる雑談。携帯電話のようなVOIPレピータの流行、マンネリ化したアワードハンティング、飲み会と化したクラブのアイボール、アマチュアは進歩的であれということで、その技術がアマチュア無線遊びの本質に即して適っているかどうかを検討せず、考えなしに思いつきで初めた数々の交信方式。
時代にただただ流されていった結果、AMラジオのように廃れていったのではないでしょうか?
アマチュア無線遊びの楽しさは少しもなくなってはいません。新奇な物に目を奪われて本質的喜びを埋もれさせてるだけではないでしょうか?