「オーディオとラジオ放送衰退とアマチュア無線」
7N4QUK 岡本 均
オーディオブーム華やかな頃、「原音再生」いう言葉が良いオーディオシステムを指す言葉として使われていた。
しかし「原音」ってどこにあるのだろう。よく考えてみればそんなものはどこにもないことがわかる。
真空中では音は聞こえない。ハーモニーも生まれない。シンセサイザーの原音とは低周波の電気信号だろうか?
空気という媒体があってそれを振動させる「楽器」があって耳があって鼓膜があってそこから電気信号が脳に伝わり脳で音は処理され認識される。脳で認識される「音」と鼓膜の振動は同一のものではない。視覚と同じように脳によって「再構成」されているのだから。
耳が聞こえない人は風船を抱えることで音を手で感じ取ることができる。
視覚を含めた体全体で認識というのはされているものだ、自己の身体像とは自己の脳によって再構成されたものにすぎない。耳で聞いているという認識自体、脳によって認識されているという分別自体「心」として弁別されたものから来ている。「心」は実体がない。
そして「音」も究極的には実体はないのだ。
私たちは音楽を耳でだけ聴いているわけではない。
身体全体で、心で聴いているのだ
コンサート会場という場で聴くこと
レコードプレーヤーで聴くこと、カセットレコーダーで聞くこと、
AMラジオ、FMラジオで聞くこと。
そして、真空管式のアンプで聴くことが「いい音」で聴こえると言うのは、音楽の再生技術も、媒体も「含めて」私たちは聴いていると言うことだ。「音のみ」を聴いているわけではないと言うことの証明である。
スペクトラムアナライザーで比べて、真空管もトランジスターアンプも同じと言ったところで何の意味もない。
「音楽の歴史、技術の歴史を含めて、自己の歴史を含めて」聞いているのだ。
そういう行為の方が人間にとっては「喜びが得られる」からなのだ。
「意味とは歴史」だから。
自分が「音楽を聴く行為」において、ジャケットを眺め、レコードを取り出し、クリーナーで埃をとり、プレーヤーにかけ、真空管アンプのフィラメントの輝きを眺め、大きなスピーカーで音楽を聴き、ジャケットにしまう。のと、サブスクリプションでブルートゥースイヤホンで、スマホで選曲して聴く。
同じ音を聴くでも体験としては後者の方が貧しい体験だ。
それは「意味内容が少ないから」
「京都の西尾本店で買ってきた、300年以上の歴史ある西尾八橋」と「近所のスーバーで買った、聞いたこともないメーカーの袋入り八橋」のような違いがある。同じような味かもしれないが。
これは味覚というものも聴覚のように舌だけが認識するものではないという一例だ。
バロック音楽はバロックフルートで演奏された方が聞いてみたいし、カセットテープレコーダー時代の音楽もカセットで聞いた方が、カセットケースを眺めて「歴史」を感じられて、フラットで、時代もランダムに選択されるサブスク音楽より豊かな体験だろう。
カセットテープ、レコードの復活は、人間が脳によって再構成した自己身体像として音の専門受信器官「耳」という器官にさえ「目的の」音楽という情報をノイズなしにランダムかつフラットに届ければ良いという方向で進んできた音楽再生装置に対する身体による「反乱」だろうと思う。
さて、ラジオだ。
音楽をその歴史とともに豊かな体験として聴くことが喜びだったように。
ラジオもそのアンテナの先には何もない、という喜びの体験が初めにある。
送信所も演奏所と送信所のアンテナの先には何もない。空だけしかない。
ラジオから声が聞こえてきた時の喜びはひとしおだったろう。
聴取者からの手紙や電話の反応があった放送局はさぞかし嬉しかったろう。
アマチュア無線に引き寄せて考えてみると、私にとって無線機の先のアンテナより先は何もないという、状況、同じような相手が答えてくれることもあるという状況は、無線遊びを始めてから変わらぬ喜びです。
私はこの状況を突き詰めると「空間愛」とでも呼ぶべき心理状態だと考えます。
ラジオの今の衰退はラジオを聞く人たちにとって空間愛というべき心理状態が実感できなくなっているということかと思います。
テレビがあるからという意見もあるかもしれませんが、アマチュアテレビはそれほど流行りませんでしたね。
昔の一般の人がラジオを聞くという場合、メーカー製のものもありましたが、五球スーパーラジオを作ることから始めていたというのを聞いたことがあります。
ラジオの回路を頭の中に想像したりしながら、聞いていたのでしょう。
当然、アンテナを張りアースを取りますから。アマチュア無線局と似たような心持ちで聞いていたと思われます。
その後、トランジスタの普及でポータブルラジオが出て、持ち運びできるようになります。
車にもラジオの受信機は必須の装備となります。
果たしてラジオは放送内容だけで聴かれているのかという問題。
またアマチュア無線に引き付けて考えます。
アマチュア無線は
「相手と話をするのが楽しくて交信していますか?」
寂しいお年寄りはそういう方もいるかもしれませんが、私は
「交信中の話は「無線行為」自体を味わうため」
です。たまに話が合う人がいて長話することがありますが。
それ自体目的ではありません。話がおもしろすぎると本来の無線行為の喜びを失いかねません。
一般のAM放送、FM放送局は「何かをしながら聞く」というのが元々の有り様で、居住いを正して聞くという性質のものではなかったのではないでしょうか。受験勉強しながら、手仕事をしながら、運転しながらがちょうど良い聴取態度のように思われます。
「話半分に」できれば好みの誰かが話しているのを聞いているというのがいちょうど良い塩梅の聞き方ではなかったでしょうか?
アマチュア無線局のVUHFの交信時の姿勢に似ています。
無線行為自体が喜びなので「話半分」で良いんです。
AMラジオはよく言葉がわからない子供のまわりで「大人どうして楽しそうに話しているように」話しててくれれば良いんです。
AMラジオの聴取者は無意識レベルで広々とした放送エリアを感じ、エリア内の空間を感じ、「愛すべき空間」の中にいることを感じられれば良いんです。
もちろん、放送内容が災害時に頼りになることも大事ですし、放送エリア内に密着したニュースがどこよりも早いことが、普段「話半分」で安心して聞いていられる放送局の条件です。
これが全国を放送エリアにもちどこの災害報道にも強いNHKのNHKラジオ深夜便という放送が人気の理由ではないでしょうか?
せっかく放送エリアがあるのに全国ネットの放送ばかり予算上の都合で流し、地元の災害なのに東京キー局の方が情報を持っていて、東京キー局の有名芸能人の娯楽番組を流している地方局を「話半分」で作業しながら聞いてくれるわけがないのです。
在京キー局も、全国ネットだからといって、有名芸能人を使った番組、人気MCを使って配信していれば良いというものではないのです。TBSだったらそのエリア内に密着した情報はどこよりも早いくらいでなくては「話半分」に聞く放送局としては適当ではありません。
都市部のキー局は全国配信を意識するあまり、地域密着になれず、地方局は財政難であるが故に安易にキー局の放送を配信し、地元密着になれないというジレンマにあります。
聴取者はラジオ発祥以来、ラジオの先、送信所のアンテナの先には何もない、「愛すべき空間」自体を放送内容は「話半分」で楽しんでいるのです。ラジコはラジオばなれを助長します、FM化は競争の激化にしかなりません。
対策としてはAMFM外部アンテナ端子のある高級感のあるラジオ、AMアンテナとアンテナコンセントの新築からの設置、ソーラパネルのノイズ対策でしょうか?テレビ離れも同じことです。
さてアマチュア無線に戻って考えます。
アマチュア無線の喜びは、携帯電話の普及でもこれからくる衛星スマホでも失われません。
ラジオ放送聴取がラジコに取って代わられそうな今こそが、ラジオ放送にとっての「レコードの復活」の時代でないでしょうか?貧しいラジコでの受信経験に対して私たちの身体が反乱を起こしても良い頃ではないでしょうか?
人々は「情報、娯楽」だけを求めてだけラジオ放送を経験したいわけではないのですから。
ラジオ聴取者の身体が豊かなラジオ体験に飢えた時、そして彼らの身体が反乱を起こした時、その時こそアマチュア無線の再興の時かと思います。
それはそんなに遠くはないのではないでしょうか?
これからいい外部アンテナとその端子のある良い音の高級ラジオが求められる気がしてなりません。
一点、オーディオの世界でなぜ、スマホで聴くサブスクリプションのMP3の音楽に若い聴き手の身体が「飢えや物足りなさ」を感じレコード、そしてレコードプレーヤー、カセットテープそしてプレーヤーを見出したのかが興味があります。昔使っていた人が今の再生システムに物足りなさを感じたのなら後出のBCLと同じでわかるのですが。現代でも細々と「残っていた」のが良かったのかもしれませんね。
豊かな経験や美味しい食べ物を味わったことのない人には、今の生活経験が貧しく、おいしくないものでも物足りないとか、まずいとか感じられませんから。
「豊かな経験、美味しい味わい」をもたらす、「伝統技術」は細々でも残っている必要がありますね。
音楽発信者側の発信の仕方も良かったと聞きます、カセットテープやジャケットの大きなLPで発表したり。
中華ラジオで海外放送を聴く過去のBCLブームの世代が多いと聞きます。それは単に昔、BCLをやっていたからだけではないと思います。インターネットでいくらでも海外のサイマル放送が聴ける現在、わざわざノイズの混じった放送を聴こうと思うのは、「単に情報でない」「豊かなラジオ受信体験」を取り戻したい、体験したいからではないでしょうか?。ただ現代的障害として人工的ノイズが多くなったというのがありますね。中には若い方もBCLをする方もいるようなのでその辺りが増えると良いですね。今のBCLの昔と違って嬉しいところは、放送局に書く受信報告書が電子メールで送れて、受信証や記念品をモノでもらえるところですね。新しい技術が。昔の技術を否定することなく背景から支えるものとして機能しているのを見るのは嬉しいです。
アマチュア無線通信も携帯電話のように、メールや音声をノイズなしに送れれば良いというものではないのです。最近、昔、アマチュア無線をやっていた人、やりたくてもできなかった50代、60代前後の人たちが開局、再開局するのによく出会います。もちろんその人たちは豊かなラジオ体験、楽しい無線体験を味わったことがあるか、あるいは知っている方々です。そのような方々が、アマチュア無線、フリーライセンスをやり続けることで、「豊かな美味しい無線、ラジオ放送」体験を知らない若い人々がアマチュア無線やフリーライセンス無線を「味わいたくなる」なるのは必至です。誰だって自分の知らない美味しいものは味わってみたいからです。
通信機の先にはアンテナしかない、「空間愛」を感じさせる無線遊びを通信を、人々の心が求める時代が来るのはそれほど遠くはないのかもしれません。そのためには現在、アマチュア無線、フリーライセンス無線を続けている人が、自分の遊びの、無線通信の経験の喜びと豊かさの経験を、美味しさの本質を味わえていなければ、アマチュア無線の味わいを知らない人は誰も「真似」しようとはしないでしょう。
心が意味の豊かな行為を求めるのは自然なことだからです。
実はこの点こそ今の日本のアマチュア無線界の最大の弱点かもしれません。
尚且つアマチュア無線は日本のIoT技術者を育てる「堅苦しい学校でも、教室」でもありません。
無線業界のために存在するものでもありません。
ラジオ聴取者も同じことかと。
空間は誰のものでもありません。